前回からの続きです。
前回のお話はこちら
決戦の勝敗は最早決まったも同然。
腹をくくった平家たち・・
平教経
清盛の弟の子。平教経。
この戦で一番活躍した人物でした。
「さらばおのれら、死途の山の供せよ」
これが教経最後の言葉です。
平家の覚悟
6歳の安徳天皇に「波の下にも都がありますよ」と声をかけて抱いて入水した二位の尼。
さすが天下の清盛の奥さん。きっと不安な顔を孫には見せなかったのかも。
清盛4男で総大将平知盛は「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」との言葉を残し、鎧を二枚重ねで入水。
三種の神器
三種の神器とは、天皇の正当性を証明する3つの神器。勾玉、神剣、鏡。
現代の天皇も代替わりの際に継承しています。
平家はこの神器を持ち出していた為、なんとしても取り返す必要があったのです。
この時は義経の「死なせてはならぬ」と怒号があったとかないとか。
帝も三種の神器も持ち帰れなかったら頼朝に怒られちゃうからね・・
義経のミッションは①帝を連れ帰る②三種の神器奪還③平家滅亡の3つで、うち1つしか達成されてないし、③を達成するために頼朝の許可なく勝手に九州の水軍と手を組んだりしちゃったし。
(で、さらに都で勝手に官位をもらい頼朝にキレられる・・)
平家棟梁平宗盛
平家の棟梁で清盛の3男、平宗盛。
こいつが結構やばい。
清盛亡き後、こんなアホが棟梁だったから平家は落ちぶれたのでは・・
宗盛を調べたら、Wikipediaだけでも相当なアホエピソードがありました。紹介します。
やっぱり苦労しない次世代はだめだねぇ。奥州藤原家しかり・・
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■名馬の強奪
源頼政の嫡男・仲綱の所有する名馬「木下(このした)」を欲しがり、地位と権勢にものをいわせて強引に借り受けると二度と返さず、その馬の名前を「仲綱」と改め、馬の尻に「仲綱」の焼印までして社交の場に率いてゆき、源仲綱に屈辱を味わわせる。その恨みが後の源頼政の挙兵の一因とされる。(『平家物語』)
■源競による報復
源頼政が挙兵すると、その配下にいた渡辺党の武者で武勇の誉れ高い源競(みなもと の きそう)は、愛馬を奪われた仲綱の恨みを晴らすため、偽って宗盛に寝返り、競を気に入った宗盛より名馬を譲り受ける。既に自分の名馬を持っているのにまた他人の名馬(仲綱の「木下」)を欲しがる宗盛を軽蔑した競は、その名馬で再び頼政の陣に戻り、その馬のたてがみと尾の毛を切り、尻に「昔は煖廷、今は平宗盛入道」の焼印をして平家方に突き返す。激怒した宗盛は自らの手で競を八つ裂きにするため、配下の武者たちに競を殺さずに捕えるよう命じるが、競は獅子奮迅の活躍の末に壮絶に斬り死に、平家方の武者たちにまで賞賛される。翻って宗盛の狭量さは同じ平家方の武者たちからも軽蔑される。(『平家物語』)
■壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いにおいて、平氏の大敗が決定的になり、一門が次々と入水していく中、棟梁である宗盛はうろたえるばかりであった。それを見た平氏の諸将はあまりのみっともなさに嫌気が差し、ついには宗盛を捕まえて、無理やり海に突き落とした。しかし、泳ぎの名手であった宗盛は、源氏の兵に助けられた。宗盛は長男清宗と同様、肥満だったため浮きやすかったという。(『平家物語』)
■頼朝との面会
頼朝と面会した宗盛は、命惜しさのために、頼朝に対し媚びへつらい、それを見た源氏の諸将は宗盛をあざ笑った。頼朝は、宗盛の名を平末国と改名させた。(『平家物語』)
■徳子との関係
妹である建礼門院徳子と通じており、安徳天皇は、徳子と宗盛との間にできた子であるといわれた。(『源平盛衰記』)
■時子(二位の尼)との関係
壇ノ浦の戦いにおいて、醜態をさらす息子を見た時子は、宗盛は清盛と自分の子ではないと言った。
清盛との間にできた子が女子であったため、男子を望んでいた清盛のことを考え、京の傘売りの子と実子を取り替えたのだという。捕虜になった際に宗盛は自らこの説を認め、平家の血筋でないことを理由に命乞いをしたとされる。(『源平盛衰記』)
■捕虜となったその後
宗盛は捕虜として、今の逗子付近にしばらく軟禁されていた。地元の領民は、宗盛を始めは快く思っていなかったが、子供と戯れるなど、他の武士には欠けている人間的な情愛を感じて徐々に心を許したという。処刑後は宗盛の死を悼む者が多く、頼朝へ報告する者がいたが不問に付したという。Wikipediaより抜粋
滅亡
琵琶法師
平安時代後半から、琵琶をもった僧侶が物語を語るという「琵琶法師」が活躍するようになりました。
多くは盲目の人だったそうです。
- 彼らが平家の栄枯衰退を語って日本にひろめたのが「平家物語」です。
有名は「耳なし芳一」も琵琶法師。
耳なし芳一は平家の怨霊に毎晩呼ばれる、という怪談ですね。
耳なし芳一は安徳天皇や平家一門が祀られている赤間神宮(当時は阿弥陀寺)の僧侶であり、赤間神宮に今も祀られています。みなそこの詩
壇ノ浦にはこんなお土産が売ってます
かわいい♡と思ったら、お菓子の名前は「みなそこの詩」。
平家の都があるという壇ノ浦の水底の様子を表現したものだそうです。
こんなにかわいいのに、悲しくなるお菓子・・・こちらからお取り寄せ可能です。
まとめ
幼い子や女性までも亡くなっているという悲劇が悲しい物語にさせてるんでしょうが、平家衰退は清盛が欲張りすぎた結果なのかなぁとも思います。
とはいえ、安徳天皇が亡くなったのがかわいそうすぎる・・
壇ノ浦って学校の授業で「平家が滅亡した場所」とだけ学びましたが、深く知るとこんなにも悲しい現実。
京で優雅な生活をしていた平家一門が都落ちして歩く姿を想像するとみんな京都に戻りたい一心だったろうな・・
壇ノ浦で亡くなった平家のお墓がすぐ近くの赤間神宮にあるのですが、そこに宗盛のお墓がない事に「現実感」を感じました。
歴史って実際にあった出来事で、それがあったから今もあって、続いているんだよな~という感じ。
実際に壇ノ浦行くとすごく感慨深くて、一般の人たちはきっとこの辺から眺めていたんだろうとか色々歴史ロマンを感じることができました。
やっぱり歴史探訪は事前学習で100倍楽しめますね!!
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