前回からの続きです。
前回までのお話はこちらから。
秀衡の死
巨星墜つ・・・
義経の死
秀衡の遺言を守らず、自分の保身しか考えない4代目泰衡。
兄に迫害され、父と慕った人の子に襲われ、最後が自害とは・・
まだ戦死の方がマシだったかもしれない。
関連する逸話
最後の時。弁慶が義経に向けた辞世の句。
六道の 道のちまたに 待てよ君 遅れ先立つ 習ひありとも
「冥土への道の途中でお待ちください。たとえ後先の違いがあったとしても」
これに対し、義経はこう返したそうです。
後の世も また後の世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで
「後世もまたその構成もめぐりあおう。あの紫に染まった雲上の浄土まで」
二人とも死ぬのがわかっていたのですね。
しかし、この時代の人たちはいつも和歌を詠んでるな。
義経は自害しようとし、弁慶は矢を射られてる最中にこんなやりとりが本当にあったのかはわかりませんが、なんとも悲しい歌です。
平泉危機
義経を引き渡したところで、頼朝がおとなしく引き下がらないのは秀衡もわかっていたのかも。
何より、この兄弟に奥州を治める才がないことも。
初めは謀反として挙兵した頼朝だけど、平家を討ち正当化してしまった。
歴史は勝者が作るとはまさにこのこと。このあと鎌倉幕府を開くのですから・・
藤原家滅亡
義経の死後わずか3か月後に殺された泰衡。
奥州の17万駆という強大な軍事力とそれを養えるだけの経済力を、戦の天才義経に預ければどうなっていたか。
泰衡にはわからなかったのでしょうか。
4代目ともなると平和ボケしちゃってるんかなぁ。
秀衡の死後2年であっというまに滅んだ平泉。
松尾芭蕉の俳句がこれまた染みる・・・
やはり背景を知るって大事よね。
現在
まさにつわものどもの夢の跡。
泰衡が首だけってのがリアル。
よく平泉に戻されたよなぁ。
まとめ
平泉の歴史は最初からとにかく悲しい。
義経をかくまったことで滅亡したけど、秀衡が死んだ時点で義経とは関係なく滅亡したかもね。
調べてる中で、藤原家はなんと今も血筋が残っているという記事がありました。
えーー、すごくない!?それも「安倍」に名前を変えてるんですって。
初代清衡の母方の名前ですね。
本当かわからないけど、本当だったらすごいな。ほかにも色々な説があるようです。
この歴史を知らずして平泉に行かなくて良かった。
勉強してから行ってすごく良かったです。
私の勉強の備忘録ですが、誰かの平泉旅行の役に立てばと思います。
それと、今回初めてデジタルで漫画を描いてみました。
慣れると紙のように書けますね!!
史実など間違っていたらコメントにお願いします。
できる限り修正してきたいと思います。
次は鎌倉旅行に行きたいな♪